2021版. 関門海峡の詩
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九州磯釣連盟
海洋磯釣倶楽部
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(サーフメイズJAPAN)
2025.3月で
創立
50
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みなさん、こんにちは、お元気ですか、このページは1980年~の古い写真を、そのまま利用、拡大し手直ししました。
1976.3創立 海洋磯釣倶楽部の想い出紀行
musick 白い渚の (ポール・モーリア) №11
北九州市門司区めかり海岸遊歩道前の関門海峡・白灯台は急潮で名高いA級釣り場で人気
関門海峡の詩
本州と九州を切り裂いて流れる海峡瀬戸。
その瀬戸は太古の昔より流れ落ちる名画である。
荒々しい歴史の舞台に数多く登場し、時代に翻弄された景観がそこにある。
人間社会が文明という発展を遂げる時代に於いても
その価値観は変わらず、脈々と受け継がれている海峡瀬戸。
私達は釣り文化という、実に小さなストーリーを、その海峡で生み出してゆく。
私のハートに火を付け、こんなにも熱く、大きくしてくれた関門海峡。
夢と、希望と、大志を勇気づけ、活力を注いでくれる海峡を詩う。
時の流れ
荒々しい激流が
関門大橋に向かって走り去ってゆく海峡瀬戸。
私に写る激流は、時の流れのように感じたりもする。
その流れの速さに身を置きながら、私の過去を垣間見るとき、家族や釣り仲間、会社からお世話になった、たくさんの人々の映像が脳波を駆け巡り、私を激流の中に引きずり込んでくれる。
タイムスリップした時の流れの中に、優しかった師匠や先輩達が浮かび上がってくる。
楽しかったあのときを想い出し、今の私を慰めてくれ、再び激波の中に消えてゆく。
そのような物想いにふける、空白の時間が私は好きだ。
関門海峡瀬戸
海峡より繰り出していく激流は、
やがて小さな波となり、静かにゆったり大海に注がれていく、自然の不思議さ。
関門大橋から上りの舟が 激流をかき分け力強く、ゆったりしたリズムで上ってくる。
大自然のパワーに押されながら、突き進んでくる貨物船は、
人間界におけるささやかな抵抗のようにも感じる。
波にのまれ、荒波に溶け込む釣り舟は、木の葉のように舞い踊り、成すべをもたない。
ただ自然に身を沈め、心地良い 快楽の世界に浸っているようにも映る。
関門海峡めかり公園
青春のページをめくり始めると、
真っ先に めかり海岸が大きな虚像となって飛び込んできた。
清く透き通った真っ青な 海の色、ピンク色に染まった「めかり山頂」は桜色。
赤、青、緑、そして清潔なホワイト色のツツジ色は、
私達の出会いを祝福してくれる素晴らしいステージ。
海峡瀬戸の潮風を浴び、新緑の香りを胸いっぱい吸って散策する、めかり海岸。
遊歩道から見つめられる釣り人は青い海に溶け込み、びくりともしない。
静かな大地に身を固め、荒々しい海に向かい、
お魚さんと対話する 一瞬を待ち望んでいるのだろう。
ふと自己の釣りを思い、又、彼女を気づかいながら、
自然界に浸る青春の鼓動は、今も忘れられない日々。
幼 心
奇麗に整備された、めかり遊歩道で 一人 投げ釣りを楽しむとき、家族連れで散策するファミリーが 問いかけてくる言葉
「おじちゃん釣れますかァー」
「おじちゃんお魚居ますかァー」
「どんなお魚が釣れるのですかァー」
観光客のそれぞれの雰囲気で、色んな会話を楽しむことが出来る釣りとの出会い。
ふと、私が「めかり公園」に始めてきた小学校の 遠足時を思い出した。
まだ、めかり水族館のあった時だったから、50数年が過ぎている。
あの頃は、こんなに整備されてなくて、自然の海岸線と勇壮な関門海峡があった。
めかり神社から海岸に降りると海峡瀬戸の磯遊びができ、海岸道路は茶屋と出店が並び、「少年ジェット」のお面を買ってもらったこともあった。
そして関門トンネル人道口から下関まで徒歩したこと、いろいろ。
めかり山頂公園の仏舎利塔や城山公園のお弁当タイムは、自然の恵みを一身に受け、新緑の中の遊びの時間は留まることを知らなかった。
もう、あのころの自然の遊びはできない……
笠石海岸
戦時中、国有地の笠石海岸は古ぼけた弾薬倉庫が並んでいた。
その名残のあるフェンスをくぐり抜けて行く海岸線の岩場は、投げ釣りで型の良いカレイやアイナメが良く釣れるポイントだった。
三萩野サーフ・キャスティングクラブ、北野 孝会長のホームグランドを教えてもらい、通いだした40数年前のことである。
今はない面影の海岸は岸壁となり、笠石の地名は消え、田野浦、太刀浦と名前が変わった。私達が遊んだ笠石の40年あまりは、時の流れに沿うように魚が少なくなり、良く釣れた思い出だけが残る。
クラブを結成した頃より、たくさんの釣り仲間を案内した、その笠石は、埋立造成中の中で随分、夜釣りを楽しんだ。
投げ釣りで釣れた白ギス、コイチ、チヌは刺身。アナゴは焼肉のタレを付けて次々仕上げていく石松、藤島、渡辺会長達。味付けされた魚を口に運ぶと、海の香りが口の中でとろけていく自然の味。浦本、保里、浜部兄弟、それに賑やかしい笠井、益田さんを含めた月例会には、必ず酒がつきものだった。
そんな仲間達とワイワイ賑やかに夜釣りに没頭する時間の流れは、人生最良のひとときだった。
あのとき、あの時間はもう訪れない。
白野江海岸と部﨑灯台
九州最北端の部埼は関門海峡、東の玄関口である。
海峡を通る船舶は皆、部埼灯台の明かりで九州本土を知ることが出来る。
その灯台前の海岸線は白野江港から青浜経由で入れるが、その途中が私達、海洋磯釣倶楽部の投げ釣りポイントが続いていた。
クラブを結成して間もない頃から、チヌ・カレイ・キス・グチ・アイナメを求めて随分通った。そのポイントの中で、ジャリ石を船積みする桟橋は特に投げのポイントとして夜釣りから陣取らないと、中々釣り座を確保できなかった。真冬の雪が降る釣り、早朝3時、4時から車を乗りつけ竿を並べる、益田、浦本。
海岸で焚き火をおこすと、内田、東、保里が釣りそっちのけで、チビリ、チビリとやる青浜の投げ釣りは大型コイチに時々のスズキが良く釣れた。釣り仲間を大勢誘い、月刊「釣春秋」の取材の案内で春ガレイを釣り、カラーグラビアに載ったこともあった。
部崎灯台前の清虚像ゴロタ浜海岸は、すぐそばを沖潮が通すので、キャスターにとっては恰好のポイント。
干潮時、遠投し置き竿にしておくと大型のコイチやチヌ、アイナメ、カレイが良く釣れた。
今はその面影も少なく、すぐ後ろの白野江(部崎)灯台さえ古びてしまい、山が大きく削られ、灯台だけがポッカリ浮いてしまった。自然の景観は海だけとなり、その横の太刀浦埠頭は近代的なコンテナ基地と大型の外国船が接岸するようになり、フェンスで、その岸壁が囲れた。
巌流島(船島)の釣り例会
戸畑境川の小さな港より漁船がトン、トン、トン、と、ゆったり船出する。
今日はクラブの月例会として、賑やかなメンバーを乗せて下関巌流島へ向かっている。
工大前釣具店のおやじさんに頼み込んで、朝早くから舟を出してもらったのだが、ゆったり、ゆっくり、安全な小舟で海峡を渡り切るころ「辰チャンが、南の岩場に着けてくれ」と言うが、潮の流れに押されて瀬着けできない。
とうとう舟着場まで行ってしまったから、皆さん重い荷物を担ぎ、釣り場まで40分歩く。
その長い道のりは
「こっちが近い」
「道がナイヤーないカァー」
「タヌキ道ヤァー」
「足が遅い」
「お前の案内が悪い」
等々、ワイワイ賑やかな遠足である。
関門海峡を正面に見る巌流島の海岸線は、ジャリ石浜と岩場を組み合わせた湾曲した海岸で、サーフの大物釣り場でもある。
その釣り場から、それぞれにサーフでチヌを狙う恒チャン、石さん、笠井さん。
そして、ユーモアのある遊びの釣りに辰チャンがハラかいて、実行委員長のプライドかけて必死に竿を振る。
「ジョーさん、まぁイッパイ」と渡辺さん。
大庭さんもワンカップを空けてのんびり日向ぼっこの釣り。
一投毎に根掛かりしてオモリ、仕掛けをホイホイ取られ、ボヤく利さんに
石 さん 「まぁーイッパイ」
笠井さん 「ソッチ投げるケョー」
利 さん 「お前の海カァー」
辰ちゃん 「コッチ投げてミロー」
利 さん 「オレの好ヤナイカーァ」
「又引っ掛かった」
「お前の仕掛けが上がった」
笠井さん 「オレのオモリヤローガー」
石 さん 「このフグ、お前に似とるナァー」
辰ちゃん 「ハゲとるかァー」
「お前のハラ、ヤロウガー」
辰ちゃん、利さん、石さん、笠井さんの4バカコンビに、恒チャンが入り込んで、ゲラゲラ笑いこける釣り三昧は、そばで見ているだけで楽しい。
20数年前のこんなステージが、月例会で何度繰り返されたのだろうか。
昭和52年~56年
門司港L波止の夜釣り月例会でコイチの暴れ食い
保里剛太郎会長が退任されて、新しく、若い渡辺征照さんが二代目会長になった。
早速、懇親会を兼ねて月例会。
ホームグランドの門司港周辺に10数人の仲間達が集まり全員サーフのコイチ釣りを始めた。
今日が実行委員長の田川市の、山滝一道さんが、先週、L波止で20匹近いコイチの大物を釣り、今日もハナ息が荒い。
普段はウキふかせ釣りしかない連中も、この話を聞いて、新しいタックルでのぞんだ。
そして、全員ホクホクの、えびす顔。
深夜、L波止に、みんな集まって検量。その後釣りをしながらチビリ、チビリでなくて、ワッショイしながら楽しむ渡辺会長に、大庭さん、山ちゃんも、みんな大漁で盛り上がってしまった。
新浜13号で辰ちゃん、恒ちゃん、利さんなどが入り、40~50㎝のコイチに、チヌまで含めて、朝まで続く関門海峡の釣り。
そのような釣り場が門司港レトロとなり、大半の釣り場が閉められた。
昭和56年~60年ごろ
関門海峡、小倉日明切れ波止の新春月例会
日明海岸の主である笠井、辰ちゃんコンビは、このかいわいでは有名な釣りキチである。
新しくオープンした北九州市中央卸売市場内に業者許可をもらい、車を乗りつけ、その波止から釣りをする。
そして、アイナメ、カレイの30~40㎝オーバーを、アサリ貝のエサで釣り、「ジョーさんも入らせてヤルケ、原稿は書かれんョ」で、波止のコーナーから投げて、なんと39㎝をトップにして、30㎝オーバーのアイナメを11匹釣った。
もちろんカレイも3枚。
その後、クラブ員やら常連客が入りだして、とうとう釣り禁止でフェンスができてしまい、そのフェンスを乗り越えて行く釣り人が、ガードマンから、警察ざたになるまでになってしまった。
もっとも、私達の釣りクラブ会員さんは、していませんけどね。
その後、笠井さんの釣り情報で、日明切れ波止で、夜釣りのコイチ、スズキ狙いが大ブレーク
!!
最初は、そろーッと浜部、笠井さんのゴムボートで渡っていたが、この頃は幸進丸を利用して、釣りクラブの月例会として、正月から3月ごろまで、カレイ、アイナメは、みんな30㎝オーバーで、40㎝のアイナメも数匹キープする会員達もいた。
辰ちゃんのブラクリ仕掛けに40㎝のアイナメ。
渡辺会長は、ウキふかせでメイタ、クロを面白いように釣りまくるが、そのそばで笠井さんが35㎝前後のアイナメを5~6匹釣るので、とうとう渡辺会長もクロ釣りをやめて、ブラクリ・アイナメ専門の人間になってしまった。
そのような切れ波止釣行が10年以上続き、今は「日明海峡海釣り公園波止」として陸続きとなり、楽しかった、釣れた、私達、海洋磯釣倶楽部のホームグランドが又1つ消えた。
関門海峡の西部、若松一文字波止の月例会は全員サーフ?
海洋が結成されて、近場のファミリーフィッシング多くなった。
その代表が関門海峡だが、この若松新波止は別。テトラと波止を30~40分も歩いて釣り場に入るから、その釣り場までの道のりで、東、保里、辰ちゃん、笠井、私も、スッテンコロリンでズッこけたこと再々。
そんなことなら、まだイイ方?
11月から3月ごろの真冬の季節にカレイ釣り。みんなザブトンガレイの50㎝クラスを求めて、この一文字波止にやって来るから、
「ジョーさん、一文字の先端で、キス29㎝釣ったョ」 …… 木谷さん
「カレイの50㎝を隣の吉田さんが釣ったョ」 …… 木谷さん
置き竿の竿、流された。 …… 辰ちゃん
夜釣りで道糸6号、切れた。竿、持って行かれた。 …… 利さん
シケてズブ濡れになった。帰れなくなった。ヘリコプターで救助された。 …… 木谷さん
私、大潮の大波で、バッグ、クーラー流された。色々
そんな釣り場で月例会、大会をクラブで何十回もしました。みんなカレイ、アイナメ、チヌ、キス、コイチの大物釣って、さすが一文字
!!
オール九州、西日本、九州磯釣連盟等々の大会魚拓を、この釣り場から提出して、優勝とか入賞は数限りなくあり、海洋磯釣倶楽部のホーグランドでしたね。
映画「釣りバカ日誌」のロケ地となったり、私がアプローチした「大ちゃんの釣りに行こう」のTVにも出演した釣り場が、とうとう釣り禁止になってしまった。
昭和44年~63年ごろ
海洋磯釣倶楽部
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