九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部(サーフメイズJAPAN)2025.3月で創立50を迎えました
2022.3.修正、読みやすくしましたね♡みなさん便り下さい、そしてびにさい
  
     北九州市若松で生まれた海洋磯釣倶楽部の歴史

        海洋の基礎を育てた恩師




                 上瀧勇哲 (大和三郎丸)










海洋磯釣倶楽部、歴史で生きる恩師

始めに
、若松で誕生した海洋磯釣倶楽部のおいたちは、先輩達の篤い愛で育まれた歴史がある。「たかが釣り、されど釣り」ということわざは 遊びの釣りではあるが、深く没頭する過程に、その面白さ、魅力に引かれ、生き甲斐とし釣趣を極めるところに原点がある。
私達は趣味である釣りを、海洋磯釣倶楽部を通して楽しんでいるが、そのクラブの価値観を貴めてくれたのが先輩達であり恩師でもある。
「海洋のおいたち」は先輩達の熱い歴史であり、その歴史、生い立ちを直接関わった事を紹介し、皆さんのハートに少しでも多く、優しい思いが届けられたら幸です。

2022.3.             海洋磯釣倶楽部 創立会員 上瀧勇哲





初代会長 保利剛太郎さん

海洋磯釣倶楽部がまだ生まれたての頃、保里会長と四国愛媛県佐田岬や大分県蒲江、山口県の山陰青海島など随分あっちこっち遠征した。
会長は新しく買ったスズキ・セルボを乗り廻し、とにかく仲間達と釣りやドライブを楽しんだ。
その上で、根から大好きの花見酒は、いつもリュックにワンカップ大関が入っていた。
四国佐田岬半島正野港は春と秋の連休日を利用して、兄の東さん、内田さん、藤崎さん、そして私、益田さん等、2台の軽自動車で7~8人の釣行が普通だった。


波止から入れ食いする大アジにクロ、メバル、ヤズ、サーフする弟や益田さんには35㎝カレイや29㎝オーバーの巨キスから、アコウ、カサゴ、とにかく行けば必ずクーラー満パイとなる釣行に私達は大満足した。
その中でも釣りを半分楽しんで、夕方から正野港の神社境内でチビリチビリやる酒懇親会。私は飲まないが、保里さんを囲んで、内田、益田さんはいつもご機嫌だった。

なんせ夜釣りで30㎝オーバーのアジが入れ食いで、クロ、チヌと、とにかく寝る暇もないぐらい良く釣った佐田岬半島の釣行。保里さんだけは、家族で食べれるだけで十分、と言って釣りはいつも半分。

そんな保里さんは職場の上司であり、温厚で太っ腹、人間の大きさは社内随一、しかも面倒見が良く、人当たりがイイので誰からも好かれた。

海洋磯釣倶楽部はそんな保里会長を望んでいた。
若松高校ではラグビー部のキャプテンをやり、あの有名な若松敬竿さんとは同期生であることを後で知った。そんな保里さんから可愛がられ、同僚から羨ましがられるぐらい社内で可愛がられた。
会長宅で海洋磯釣倶楽部の常会や新年会、総会を開催したこともある。
奥様や一人娘の美由紀ちゃんまでジョーさんと呼んでくれた、賑やかで明るい家庭は大好きだった。しかし、転職されて海洋磯釣倶楽部から身を引いた保里さんではあったが、私は酒を持って良く遊びに行った。
あのとき、あの笑顔、いつも大歓迎の保里さんだった。
そして、酒の飲みすぎで命を削った保里さんを送ることになった初夏、兄の東さんが「よう来てくれた」と泣いた。まだ60才だった。

                         
1976.3.~1993.6. 若松中畑町



 

 



相談役 内田小次郎さん

その保利会長と義兄弟の内田さんは、奥様が姉妹の仲で、長女がやはり釣り仲間の東さんの奥様、このことで私達、海洋磯釣倶楽部は三姉妹に関わる深いお付き合いをする事になる。

内田さんは印刷所の活字組版を職業とする方で、私の先輩にあたる方。
釣りの楽しみ方、特にウキ釣りの面白さを優しく教えてもらったり、仕事もジョーさんで呼んでくれて、すごーく面白くて、親しみのある方だった。そんな内田さん、身体障害者で左足全てが義足でありながら、一般人以上に「仕事」と「釣り」そして「酒」には凄いものがあった。
いつもご自分のポリシーを持ち、なかなか持論を曲げないから職場で良くケンカをしていた。
しかし私には愛弟子のように、仕事も釣りも人一倍可愛がってくれた。


浮子ふかせ釣りが得意で、細身のOHヤマメ鈎は彼の愛用針で、波止の小物釣りでは誰よりも釣好が勝っていた。
聞いてくる釣り人には親切に仕掛けなどを教えて、釣りの先生と皆から敬われた。
そして今のオーナーカットメバル鈎は彼の持論の針としてクラブ員が多用している。

山陰の波止、大分県蒲江の波止群、それに宮崎県門川の波止から、佐賀県肥前町、呼子の波止など、毎週のように誘われたあのころ。
磯釣りの場合でも彼だけ渡船基地の波止で釣りをして、磯組より内田さんの釣果がいつも勝っていた。
そんな家庭の中、奥様や一人娘の由美ちゃんと一緒の、時々の食事会。
そんなとき、「ジョーさんが内の由美をもらってくれたらナァー」が口癖だったご夫婦。
あのころの由美ちゃんはまだ小学校5~6年生。

酒を飲みすぎて肝硬変、病院に見舞いに行くと「ジョーさん、退院したら蒲江尾浦に行こうナァー」 そばで聞いていた奥様が「なに言よっとねエー」 それでも内田さん「まだ50㎝オーバーのチヌ釣ってないケェー、番匠川も行こゥヤー」などなど。その数日後、去ってしまった内田さん。
横浜で由美ちゃんの結婚式、内田さんの親友としてのお祝いの言葉、涙でくれた奥様も後を追うようにして去ってしまった。


                          
1970.~1991.5. 若松用勺町





ユーモア―が自慢の吉田印刷磯釣倶楽部 会長 萩原金安さん

会社に入社して間もない私を始めて釣りに誘ってくれたのが萩原さんだった。
萩原さんはオフセット機械を操る技術屋さんで、昔は石版で原色カラーを印刷したり、新聞紙より大きなカラーを印刷する、印刷所の顔でもある方。

しかし人前に出ることなくいつも脇役で、人を表に出す方。脇役でありながら場を盛り上げ、楽しい会話とユーモアのある話しは、皆から萩原の親父と親しまれた。
そんな親父さん家に随分通った。

息子さんの萩原康満さんは海洋磯釣倶楽部の会員でもあるが、創価学会の青年部主師として活躍された方でもあり、娘さんはお母さんに似て美人。
そんな萩原家も定年してすぐ親父さんが肝臓病で入院、そして間もなく去ってしまった。
奥様が「好きな酒をたくさん飲んで行ったから、本望でしたよ」の言葉に、息子さんが「ジョーさん、酒はないけど遊びに来てョ」
その後、戸畑に引越され、魚釣りとは縁が切れているが、皆さんどうしているだろうか……


                     
 1968.~1979. 若松大井戸町



 

人生の恩師 空閑敏明さん

私を無理やり磯釣りに引っ張り込んだのは会社直結の上司、空閑敏明さんだった。
高校を卒業してすぐに北九州市若松区、吉田印刷所に入社した。
社員130名ほどの会社に平版製版課、活版製版課、活版機械課、製本課、営業課、それと平版機械課があり、「どの職場が良いか?」と吉田正人社長が聞くが、「何処でも良いですから」と答えたら、社長が「全ての課で仕事を覚えてもらうが、いずれ、会社のリードオフマンになってもらうつもりで頑張ってくれ!!」と、まずはオフセット機械課から学ぶことになった。そして、会社勤めが始まった。

早速、空閑課長から案内され、全自動オフセット印刷機パールというスイス製機械の紙積みからスタートした。この時より海洋磯釣倶楽部となる元祖が、この職場より始まったことになる。
萩原、竜野、中原、荒木、奥村、そして浜部利治さんと、たくさんの先輩が居たが、中でも空閑課長が、なぜか仕事の延長戦の釣りの小間使いとしてこき使ってくれた。

そのイメージが私の人生、生き方を変え、釣りクラブの世話係としてのセンスを植えつけてもらったような気がする。
課長と仕事以外でも一緒に魚釣りで遊べることは、色んな意味で有利でもあったし、人間関係をもっと広くアピールして大きく育つ?ことにもなった。
課長の奥様の親戚になる、下関市川棚の石橋さんや、佐賀市内の実家等へ、泊りがけの釣りを良くした。特に川棚の石橋さん家には個人でも良く遊びに行き、お魚と交換の野菜を良く貰った。

19才になりマイカーを購入した途端、釣り専用車となり、釣り猛者達を入れ代わり宮崎県門川沖のビロー島通いを良くした。そのリーダーが空閑課長であり、気が狂ったように焚き付けられた。
当時は車の免許を持つ釣り人は少なく、ましてはマイカーなど持つ時代ではなかったから、よけいに空閑課長から魚釣りの指導をされた。

5月のある週末、土曜日、仕事が終わって課長の家で夕食。藤崎、中原さんを加えて出発。
途中、阪田インクス所長や板橋さんを加えて8人。
深夜、宮崎県延岡を過ぎ、門川町いおん川港の松田渡船に着。
午前4時、出船して、5時ごろ淡明るくなった大ビロー島に石鯛マンが上磯。私と空閑課長はブリバエでシマアジ釣り。昼過ぎの午後3時、納竿して帰港。
船長宅で熱いお茶と、蒸し饅頭をたくさん頂いて出発。
午後8時ごろ別府で温泉に入り、夕食。若松には午後12時ごろ着。
そのまま会社で泊まり込み。月曜日仕事して、やっと家に帰宅。
そのような磯釣りスタイルが当たり前のようにあった時代。

① 5月、6月、7月は、月4度の釣行が当たり前で、石鯛を持ち帰る先輩達。
② イセエビのオミヤゲ付き
③ 船長の奥様、娘さんが作った手作りのイモ饅頭と蒸かしパンが旨かったこと。
④ 魚を釣りきらない私にいつもオミヤゲ付き。
⑤ 船長さんの娘さんもらったら釣りがタダになると冷やかされること再々。
⑥ 釣りの楽しみ方、釣り仲間の和。
⑦ 会社の仕組み、お付合いの仕方。
⑧ 釣りマナーとゴミマナー。
⑨ そして仕事の情熱と会社組織のあり方。

空閑敏明課長から学んだこと色々。
そして「釣りは遊びで、楽しむもの」と教えられ、色んなところに連れて行ってもらいながら、社交的、人々と接する出会いを導いてくれた恩師。
仕事を教える時は上瀧。遊びのときはジョーさん。と、使い分けする師匠は私の人生の恩師であった。
その恩師は、持病の腰痛に悩んでいたが、仕事や家庭にも多くの悩みを持ち、毎日、仕事帰りの居酒屋さんでウサばらし? それでも、私が会社の後継者としての扱いをしてくれた。
その師匠は、まさかの53才で自ら命を断った。
その後、私は若松から離れ、転職したが、今だ空閑師匠の奥様と話しができることに幸せを感じている。


                     
1968.~1977.4. そして、2012






 

副会長 東 登さん

昭和51年3月に海洋磯釣倶楽部が創立し、その翌年、新入会員が9人も入会して、いっきに25人に膨れ上がった。
一周年記念釣り大会は福岡県鐘崎から波津海岸にかけての区域とし、一般参加も含めて35人ほどのファミリーが参加した。
このときからお世話係で参加した東さんは、保里会長の義理の兄さんになる方で、内田さんの奥さまも加えて三姉妹の婿さんが釣り仲間として海洋磯釣倶楽部を先導することになった。

その一周年記念釣り大会には、浦本会員が手製の畳一畳分の応団幕を製作してくれた。そして、この釣り大会にFBSテレビが取材に来たこと。その大会の模様が、その次の夕方、テレビ放映された。

私達のクラブはファミリーフィッシングを主として、20代前後の若者集団が活力を注ぐクラブだった。
その中で40才そこそこの保里会長に内田、東さんはチームリーダーとして、とにかく若者達を引っ張った。
若者にない広い知識と、社会人としての良識を、釣りマナーとか、釣り技術、そして人間関係のすそ野を、とにかく広げた。それを最もアピールしたのが東さんだった。

JR若松駅(国鉄)に勤務する傍ら、労組にもパワーを発揮されていたそうだが、趣味の釣りに関しては、学生会員をとにかく可愛がった。
ただ、釣りクラブのルール(規則)とか、釣りマナーの原理原則はとにかく口うるさかったので、イヤがる会員もいたが、人の良い保里会長に吸収されて、海洋磯釣倶楽部がよりレベルアップされたのは、東さんのおかげが多大ある。その、東さんの釣りスタイルは、なんでも屋。
サーフでも、磯釣りでも、穴釣りでも、イカダ釣りでも、なんでもヤル東さんと、とにかく釣行を良くした。
クラブ以外の四国佐田岬の磯釣りから、大分県方面から長崎県平戸、崎戸、福島、山陰、青海島、須佐、萩へと。そして昭和62年、ある病気で入院され、クラブを休会され、そのまま時が過ぎたが、私達との接点はまだ続く。

内田さんを送り、保里会長を送るときも、東さんは付きっ切りでお世話をしていた。
会う時はいつも「ジョーさん、元気してるかョー」「ワシャーもう釣りしてないケンドナァー」と、長身の大きな身体にしては、小さな渋い声でささやく東さんが大好きだった。

                        
1977.~1998. 若松畑町



海洋磯釣倶楽部の基礎を築いた恩師 まとめ

私のハートには、海洋磯釣倶楽部と巡り会えた恩師を始め、多くの釣り仲間と出会った友情を感じる事ができます。釣りを趣味として一緒に遊んだ、いく千人、いく万人の釣り人達。
海洋磯釣倶楽部の長ーィ歴史には、それらの釣り人達が、様々なところで出会い、一緒になり、楽しい釣りをしたプロセスがあります。又、釣りマナーアップや、それぞれの釣り人のハートを学んだ歴史が、積み重なり、未だ続いております。

たかが趣味の釣りクラブであっても、多くの釣り人をまとめ、より良い釣り文化を整えてゆく為に、リーダーシップを発揮させ、「九州釣り文化」を先導させる!! と言ったらオーバーな表現になるかも知れないが、そのような海洋磯釣倶楽部の気風を育て、伝統を作った恩師を、ここに紹介しました。

保里さん、内田さん、東さん兄弟に、人生の恩師である萩原さん、空閑さんを、釣りという狭い可所から紹介させていただきましたが、それぞれの方々の人生の歩みは、もっと奥深く、家族愛や人生論まで立ち入ることはできません。しかし、釣りという趣味で出会った楽しい想い出だけを拾い集め、私との関わり、海洋磯釣倶楽部との関わりだけ、垣間見て紹介しております。

海洋磯釣倶楽部は、そろそろ創立50年を迎えるときが来ておりますが、このクラブに足を踏み入れた釣り会員、仲間は、もう150人を越えています。その中の大部分の方々が去り、釣りから身を引いた方が、わずかにおりますが、「機関誌 海洋だより」から「サーフメイズJAPAN」の新聞発行を、楽しみにして居られます。

私達はそれらの先輩達も含め、過去の栄光と現在の釣り文化を、もっと、もっと、アピールしながら、恩師が大切にしていたハートを受け継ぐこと。そして、お魚釣りは楽しむもの、みんなで仲良く、自然と触れ合いながら、エンジョイしながら「九州釣り文化の構築」をはかってゆきたく思います。


                               
2022.1.1.  上瀧勇哲




 





 


この稿について何かありましたら、お便りをお寄せ下さい。


                海洋磯釣倶楽部TOP
ようこそ海洋磯釣倶楽部1.を修正     そして2013.海洋磯釣倶楽部2.~  2017海洋のホームページ3.  
2021. 海洋磯釣倶楽部
   2022版・海洋磯釣倶楽部新しく開設リンクご覧下さい