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海洋磯釣倶楽部の前身は 昭和46年3月設立の吉田印刷磯釣クラブ 海洋磯釣倶楽部(昭和51年3月創立) 発祥の地、北九州市若松 |
海洋のふるさと
若松港の海岸路
工場に埋もれた若松の街に、朱赤色した若戸大橋が、によっきり顔をだす早朝、ボーン ボーン ボーンと 洞海湾を行き交う貨物船の隙間を抜け、渡しの定期船が波を分けて走り抜ける。
若松の渡し場に足を踏み入れると、灰色した空の色から、朝霧がひんやりと体を包み込んでくれる。
ゆったりした歩調でリズムをとりながら、いつもの海岸路を80歩進むと、朝もやの中で巨大な大橋が淡くかげりを見せながらそびえ立つ。その下を通り抜け120歩ほど石だたみを踏むと、若松港の古ぼけた魚市の電球が潮風に揺れている。
その奥で元気のイイ魚河岸の兄さん達が、トロ箱からはみ出る天然マダイやイシダイなどを囲んでセリにかけている。そのセリ歌が絶妙までに響き渡り、朝のひと時を感じる。
片隅で魚商のバア様達が寄り集まり、楽しそうな会話が弾むころ、すぐ傍の食堂、中村のおやじがハゲ頭を気にしながら魚を買っている。
魚市と海岸路を隔てた駄菓子屋 新浄で、いつもの温かいコーヒー牛乳を飲みながら、若奥様の明るい会話に聞きほれるころ、三姉妹が人なつっこく「おはよう」の挨拶を交わしてくれる。奥様に似て目が大きく愛想が良いのは魚市の人達の人気者。
十代の私と同年輩の女達が、スマートなミニスカートで海岸路を闊歩するころ、東の空から朝日が淡く輝きを増してくる。
薄茶褐色した洞海湾がキラキラ輝き、美しさを整えてくれると、ボーン、ボーンと低音を響かせながら大きな貨物船が奥洞海から若戸大橋をくぐり抜けやってくる。
その光景は、大海を前にした海を、更に勇壮に見せてくれる。そして通りすがりの波が岸壁を叩き、波飛沫が海岸路を湿らせると、海の悪臭を辺り一面舞い散らしてくれる。
工場群の中から突き出た数10本もの煙突から、黒煙が吹き出される北湊。
洞海湾を隔てた戸畑、八幡の街からも、黒・赤・白の煙がモクモクと舞い上がる空はネズミ色に染まり、薄らと霞む若戸大橋は今日も寂しげ…。
昭和43年3月
若松、小石海岸の磯遊びと逆水のキス釣り 2
親父のような萩原さんと中原先輩に誘われて、若松逆水海岸のキス釣りをすることになった。小倉北区三郎丸から戸畑渡場までチャリンコで12㎞もこいだら、さすがにキンタマが痛くなった。早朝の洞海湾を渡る市営渡船は夜勤明けのサラリーマンが少しで淋しいが、日曜日の釣り人はチョット多く、なぜかホットする。
20円払い5~6分先の若松区役所前の伊木釣具店に行くと二人が待っていた。
いつも元気の良い伊木のおやじさんから小ケブを100円買うと
「少しオマケしとくからナァー」「頑張ってコイヤー」と景気をかけられたが、先輩達の常連さんだから愛想がイイというのがすぐに分かった。
三人それぞれ愛用のチャリンコで、えびす市場を通り抜け、若松高校の峠をのぼり終えると、又々キンタマが痛くなった。しかし青い海が正面に迫り、見えてくると俄然スピードをあげる中原先輩。
市営バス通り下の小石海岸はアサリ掘りする家族連れが20組ほど、その先の不動下海岸はミャク釣りのアイナメ釣り師が、重いビクを腰に下げている。
暖かい朝日を一身に浴びながら走るサイクリングは、心地良い汗と潮風で、気分爽快!!
いつも印刷所の仕事をもらっている若松電源火力発電所を過ぎると脇田港の海水浴場が見える。今日も貸しボートのキス釣りが10ハイほど出ているようで「その内、上瀧も乗せてヤル」と萩原の親父さんが言う。
今日のキス釣り場は、港から先のあぜ道から入る親父さんの穴場で、砂浜と磯が入り組んだ逆水という海岸。ウキ釣りのチヌも釣れるが「今日はキスを釣らせてヤル」と、親父の鼻息が荒い。そして釣りが始まる。
さすがに馴れている中原先輩はもうキスを釣った。
1匹、2匹、3匹と、簡単なブッ込みスタイルで釣れるキスは、藍ノ島の舟釣りで釣れるぐらいの、25㎝サイズはチョット信じられない。
私の3m、6角グラスロッドは新調したばかりで、小さなリールと組み合わせたナツメオモリ式の仕掛けで20~30m投げると、いきなりキスのあたり。10匹ほどキスやキュウセンベラが釣れたころ、萩原さんは大満足の様子で、早速弁当を広げて「食へ」と勧めてくれる。のり巻きのオニギリは優しいおばさんの顔が写る。
上天気の5月、白島の男島、女島は緑色、その先の蓋井島が薄らと霞んで見え、山陰の山並が墨絵のように写る。
そして、真っ青した藍色の海にカモメが飛び交っていると、急に真っ黒い海ワシが降りてきて小魚を拾って行った。脇田の浜に居着いている海ワシは、番位が2~3種いて、大きな羽を広げ、小高い丘の松林から私達の釣りを見ている。
おいしいオニギリと冷たい麦茶を頂いて、自然の景観に見とれていたら、いつの間にか昼寝をしたらしい。
今日の釣果は、十数匹のシロキスとキュウセンベラ、そして味噌汁に旨いアラカブを親父さんの奥様にプレゼントした帰り道、赤岩海岸を通りかかると、大先輩の永谷さん家族が磯遊びをしていた。
小石まじりの藻影にサザエやビイナ、それにアワビも多く、奥様の妹さんが「こんなに捕れたンヨ」と見せてくれた竹ビクには幼児の拳ほどもある大きな物から、エビや小魚も入っていて、それはもう大変なご馳走になると話してくれた。
干潮時の一刻は、ワカメや岩礁廻りに隠れているカサゴ・アイナメ・エビ等、素手で捕まえられるから面白い。
靴下をびしょ濡れにして沢山捕ったビイナ捕り、夕陽が地平線に沈む夕焼けまで遊んだお陰で、帰りのチャリンコはさすがにきつかったが、なによりキンタマが真っ赤に腫れ上がった数日間は、心地良い、きつさと痛さで楽しさ半減。
でも、次の日の夕方、社宅に住む永谷さん宅で夕食のカレーライスと昨日のビイナを頂き旨かった。
昭和43年5月
北九州市若松区小石と椿下、脇田逆水海水浴場などの45年前、1968年ごろの海岸線
山陰、川棚で遊ぶ汽車の旅 3
庭先に開花した紫陽花の色、大きな葉から夜露がしたたる早朝。
今日は昨日から汽車で揺られて山陰、川棚に来ている。
空閑主任の親戚であり、石橋のおじいちゃんの息子さんでもある石橋さん宅の訪問は釣りが目的。
若奥様に似て目の大きな可愛い女の子は『お兄ちゃん』て言ってくれて、なぜかゾクゾクするものがある。
昨日から賑やかに宴会している萩原、中原先輩達は二日酔いであり、空閑、石橋さんはさすがに酒が強いらしい。
朝、早起きしておいしい朝の朝食を頂き、タクシーで小串駅に行き汽車に乗る。30分ほど単線のガタゴト電車に揺られ、愉快な話しをそばで聞いていると、もう長門あわの駅へ着いた。大きな荷物を担いで油谷湾を往復する定期船に乗り、しばし舟の旅を味わう。
ふるぼけた大きな漁港の大浦へ着くと、さすがに沢山の釣り人が降りてゆく。
それぞれの釣り人は船釣り、イカダ釣り、波止釣りとさまざまであるが私達は石橋さんの紹介で、大浦の漁師から天馬船を二ハイ借り切って萩原さんが櫓を漕ぎ、油谷湾のキス釣りを体験することになった。
初夏だけに「チョット早かったかナァ」という萩原さんに変わって、中原先輩が櫓を漕ぎだし、久津に近い江ノ島廻りで舟を留め流す。
ゴカイをエサにして投げ込むと、大きなアイナメ、ベラ、カサゴが良く釣れる。藻魚なら入れ食い状態で大漁だが「狙いの早キスは釣れン」とボヤく萩原さんだが、それよりも石橋さんの奥様が手作りしてくれた大きなオニギリ弁当は本当にうまい。
石橋、空閑さん組もソコソコに釣れたようだか、藻魚をたくさん釣った私達にはかなわないようだった。
その後、石橋さん家族が大阪に転勤するまでに数度、宿にした私達。
あの重い釣り具を背負い、ガタンゴトン揺れる山陰の汽車の旅が楽しかったし、なにより下関の駅弁が美味かった。そして先輩達の賑やかな酒の肴にされての釣行は、入社二年目で終えた。
昭和42年5月から昭和44年ごろ
吉田印刷所のこと 4
まだ寒い朝路を20分かけて三萩野まで行くと、さすがに吐息が乱れる。
入社間もない私の通勤は、いつものバスに乗り、小倉の街を通り過ぎるころ、暖房の効いた暖かさでいつの間にか朝寝をしてしまった。
バスが若戸大橋の若松橋台で止まり、降りると、吹きっさらしの風が身体の温かさを奪い取っていく。
顔見知りの公団職員のおじさんへ挨拶を交わしエレベーターで降り、20円を払う。
会社へ続く 海岸路のコースにできた薄氷のはった水たまりを、わざと踏んで気持ち良い音を聞いた。
勤務先の吉田印刷所の大きなドアを開けると、石橋のじいちゃんが「おはよう」で迎えてくれる。そして「おはようございます」の、いつもの挨拶から始まる。今日の一日。
タイムカードを打ち三階で作業服に着替え、あり余る朝の時間に、いつもの石橋のおばあちゃんの部屋へ行くと、温かい朝茶を勧めてくれる。ばあちゃまが入れてくれた番茶はいつもおいしい。
石橋さんご夫婦は、空閑主任の義祖父にあたるお人で、会社の小使いさんとして皆から親しまれている。そして、なにより若い私を特に可愛がってくれるから大好きである。
その部屋で事務所のマドンナ、池田のお姉さんが、いつもここに来て、ちょっかいをかけてくれるから嬉しいのかも知れない。
印刷所は年末年始から4月にかけてが一番忙しい。特に私は印刷専門学校卒業生ということで各職場の主任さんから引っ張りだこになるのもこの時期。
入社して二年目の冬は殆ど徹夜作業の泊り込みが多く、この日は久しぶりの通勤だった。
宮村主任に言わせれば、北九州市内でも五本の指に入るほどの印刷所で、120~30人居る社員の半数以上は若い女の子ばかり、お前にとって「嬉しいヤロウガー」と言う。しかし、そんな色気より、やりがいのある面白い仕事に夢中になっている今、知らないことをたくさん教えてくれる先輩達に可愛がってもらえる方がよっぽど楽しい。
一階のオフセット印刷工場と隣り合わせの活版印刷機が一斉に動きだすとゴウゴウーと大きな騒音が地震のように感じてしまうのは私だけだろうか。それよりも、あのインクと油臭さは、印刷所独特のもの。最近は馴れてしまい、ガソリンの臭いが好きになり、酔っぱらうことが多くなった。
中学を卒業したばかりの女の子が忙しく動き廻る製本場、時々瀬尾主任が女の子を叱りつけているのが気になる。
そして、機械場そばで営業マンの藤原さんが、空閑主任となにやら親しげに話し込んでいると想えば、昨日、響灘の捨石で大きなメジナをたいそう釣ったと自慢げな話し。
主任の顔はいつもの、しかめっ面でなくなり、ゆるんでしまって「釣りバカ」そのもの。
二階の活字組版で呼ばれ、忙しく残業があるときは宮村主任はたいそう機嫌がイイ。
隣で版組を教えてくれる内田さんは、釣行時と同じようにジョーさんと呼んでくれるから大好きである。
文選の森さん、鋳造の藤崎さんと熱心に話し込んでいるときは仕事でなくて釣りの話し。
釣行が決まると顔がゆるくなり、それぞれにジョーさんと呼んでくれるから、彼達も大好きだ。
いつものペースで、オフセット印刷機の紙積みをしていると、空閑主任がやってきて、オフセット製版が忙しいのでしばらく加勢に行ってくれ、と、少々しかめっ面で言う。
内心、三階にある製版の仕事は大好きだし、面白い人達がたくさん居るので苦にならない。しかも若い私をジョーさんと言って、こき使ってくれる渡辺主任も大好きだし、釣り嫌いの中西先輩は、弟のように可愛がってくれる。
中西先輩は背が高くモデル系のマスクをしているので、会社の女の子からすごくモテる。みんな一様にプレイボーイと呼ぶが、ガチガチの私を良く誘ってくれる。
この前は丸柏デパートで先輩とデートしていたら、3~4人の女の子から声をかけられたし、テーブルマナーや社交ダンスもチョット教えてもらったが、どうもこんなのは苦手な私で、趣味は釣りの方が楽でイイと想った。
今日も徹夜残業が朝の4時まで続き、先輩達は職場で仮眠している。
熊本の太洋デパートのDMが入ると3~4日はいつもこんな状態が続く。
昼休み、釣りキチの永谷さんと空閑主任がスポーツ紙を広げて釣り場をあさっている。
決定すると顔色変えて仕事にハッスルする永谷さんと田代さん。大先輩の迫さんが追い打ちをかけて猛チャージすると、矢島、中西先輩がギャーギャーわめく。
フイルムから刷版作りの工程は見ていても楽しいし、会話とユーモラスな動作はこっけいで面白い。だから製版の人達は皆大好きだ。
一枚一枚、手差しのオフセット印刷機で刷られる原色カラーは以前、石版で刷っていたと竜野先輩が言う。
その名残を、柚木支配人が奥の片隅にしまっていた石版を見せてくれた。大切なものらしいが、昔は支配人自ら刷ったという石版で、大変な作業だったと言う。
そばで話を聞いていた萩原さんは、酒と女と釣りの話に切り替えると、もう酔ったような話になってしまった。
先輩の浜部さんは大の釣りキチ。仕事も上手だし、釣りも上手なのは親譲りだと荒木さんが言う。
荒木・浜部先輩のコンビでオフセット機械が動くと芸術的なポスターがみるみる刷り上ってくる。
自動オフセット機を動かしている中原先輩と奥村先輩、その機械の紙積みをしていると、活版機械主任の保里さんが、よく声をかけてくれる。
カーボン機を廻している緒方さんや、一級技能免許を持つ内海さんが、若い私にチョッカイをかけてくれるが、それも釣りに連れて行け、と、うるさくせまるものらしい。
まだ釣りを始めたばかりの私は、若松響灘方面はトンと分からないし、くだらない釣りの話をするより、仕事をしたいと想っていると、空閑主任がやって来て、釣りの仲間に入ってしまった。
どうやら週末の土曜日は家に帰れない雰囲気のようだ。そんな、いつものパターンは私が悪いのかナァ………。
昭和44年ごろ
吉田印刷磯釣倶楽部のこと 5
昼休み、機械場の隅でワイワイ賑やかに話し込んでいると思ったら、やっぱり釣りの話し。
どうやら若松の捨て石に行くような雰囲気を側で聞いていたら、やっぱり私に声がかかってきた。
『若い者は荷物を運んでもらわなァ』と萩原の親父がいつもこき使う。
内心、仕事でぐったりしているのに又、魚釣りに行かなァーいかんと、毎週の釣行に少々うんざりしていると、空閑主任が「夜は自分宅で飯食って弁当作ってやる」と甘い声で私を誘うから、つい、つい、行くことになる。
仕事が終わり一人増え、二人増え、いつの間にか山下渡船に10名以上の定員オーバーになってしまった。
洞海湾そばの会社の横から、ちっちゃな船で運河の捨石まで30分少々。
この日の夜釣りはブッ込み釣りでアナゴの入れ食い。セイゴやメイタも釣れて、まずまずだったが、帰港後、釣り大会とかで私に金券が貰えた。
ある日、会社の親和会から金一封があり、職場の趣味のクラブにも、それぞれ頂けるそうだから、これを機会に吉田印刷磯釣倶楽部を結成することになった。
それで、皆が口を揃えて『上瀧が会計になれ』と無理やり会計ノートを空閑主任が押しつけてくれた。
これが、私の「釣りバカ人生」の始まりと思っている。
その後、会社の中で毎月みんなから会費を集めるようになり、あっちこっちで釣りに誘われた。
会にとっては、一番若い上瀧がするのは当然と思い、皆でこきつかってくれた。
その中でも、職場上司の空閑主任が一番弟子かのようにして釣りに誘ってくれ、可愛がってくれた。
山陰の磯、波止、若松の響灘、筑前大島、大分蒲江、米水津、鶴見、宮崎県門川、四国の磯等、吉田印刷磯釣倶楽部は多い時で20数名居たが、空閑主任が病気がちで釣りから遠ざかってゆくところで、段々とその機能が絶えてきた。
そんな時、新しく一般の釣り人も含めた、会社抜きの釣りクラブを結成したらどうか!!、という空閑課長のアドバイスで、只今の海洋磯釣倶楽部が誕生した。
その次の年、私の人生を変えてしまった大恩師たる空閑敏明課長が、自ら命を絶ってしまった。
昭和45年から昭和50年
吉田印刷磯釣りクラブ山口県大浦大会。 山口県青海島のシロキス釣り
おいべっさん (恵比須祭り) 6
私が若松を始めて知ったのは小学生の頃。母に連れられて行った町内の遠足。
貸し切りバスの中で始めて渡った若戸大橋は出来たばかりで「東洋一長い橋」がうたい文句だった。
高塔山のケーブルカーで登り、山頂より見る洞海湾は、幼い子供にどう写ったのだろうか。
そして商売の神様、若松えびす神社は石炭と同じように若松を広くアピールさせるシンボルだった。
昭和20年代の頃、祖父が小倉北方よりチンチン電車を乗り継ぎ、市営渡船で若松渡場すぐそばの沿道から、賑やかな露店をくぐり抜け、おいべっさんに私を連れて、お参りした、と言うが私は覚えてない。
その若松に就職し、目の大きな可愛い女性と結婚し、えびす神社のそばに住むようになり、益々おいべっさんとの関わりが増えた。
勤めている会社が印刷所ということで、ありがたいオミクジ、御礼等の諸々を印刷することから始まり、同じ町内であることから、お神輿を担いだり、神社のお世話係も雑多なところからするようになった。
なにより歩いて10分ほどの、えびす神社は、散策と子供達の遊ぶ場所には好都合だし、子供の祝い事や十日えびすを始めとする祭り、「おいべっさん」は毎度参拝し、家内安全、大きなお魚さんが釣れますように、と、祈願したものだった。
昭和30年~昭和50年代
海洋磯釣倶楽部 TOPへ
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案内人 上瀧勇哲