九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部(サーフメイズJAPAN)2025.3月で創立50を迎えました
ようこそ海洋磯釣倶楽部1.を修正     そして2013.海洋磯釣倶楽部2.~   2017海洋のホームページ3.  
2021. 海洋磯釣倶楽部
   2022版・海洋磯釣倶楽部新しく開設リンクご覧下さい
  2022.3修正、読みやすくしましたね♡みなさん便り下さい、遊びに来て下さい♡

Sports fishing information service japan 1976.3. 海洋磯釣倶楽部 創立    musick 男の世界

          九州磯釣連盟 北九州支部 海洋磯釣倶楽部

ゆかいな釣り仲間たち


趣味のお魚さん釣りクラブが、37年経ちました。
 
その小さな釣りクラブは、いまだ、楽しい釣り心を膨らませています。
  
釣りクラブの原点は、面白い釣りをしながら、楽しく遊ぶこと。
   
ファミリーフィッシングから学ぶ、海洋の遊び心は、
    
家族仲間達、誰でも自由参画できます。
     
お友達になりませんか、私達は未来の若者を応援し、
      
地球に優しい、釣りを、目指します。







2010.4.海洋磯釣倶楽部の家族慰安会、沓尾でマテガイ掘り&会長宅で、バーベキュー。
飛び入り参加の九州磯釣連盟 事業部長(九州新潮会)福山さん、ご夫婦も一緒に遊びました。そして貝堀まで楽しみ、皆でカレーライスを頂きました。



 
みなさん釣りコミュニケーションしませんか。
  「ゆかいな釣り仲間たち」シリーズの原稿をお寄せ下さい。
    
このページは、海洋磯釣倶楽部 会員ならびに、家族や、OB会員、
     
みなさんの投稿広場としてオープンします。
      
面白い、楽しい釣行や、ゆかいな仲間たちのエピソード、
       
そして自慢話など、なんでも下さい。
        
貴重なお便りが、全世界どこに行っても見られますから、
         
遠くのお友達にもPR下さい。
          
サポートは私がご案内、よろしくお願いします。

                                   上瀧勇哲







2010.2.5. 海洋磯釣倶楽部の新年会・総会は若松簡保保養センターで開催して、たくさんのご褒美とお魚さんがありました。


ゆかいな釣り仲間たちシリーズ                  №.1

トホホッな おバカさんのお話し
                               
  ペンネーム アラカブ熊

今年最初の釣りは、私の大好きな根魚釣りで、長崎県西海橋近くの伊野浦海岸から投げ釣りです。
昼過ぎの2時45分に小倉東インターに入り、5時過ぎに針尾漁港に到着。

すでに、吉本さんと星野さんが竿を出していて、アイナメは釣れず、アラカブを2~3匹釣ったとの事。
早速私も2本竿を出し、シーバスロッドで足元をこづきながら釣っていると、1発目に釣れたのが、29.3㎝の大きなアラカブでした。
日が暮れて釣れたのは、アナゴ3匹だけでした。
その内に川原さんたちも到着です。
外の気温は低く、吐く息が真っ白です。
さっそくチャンポン鍋を川原さんが準備してくれたので、みんなで楽しく鍋を頂きました。
朝になり、会長さんや、大道さん家族も加わり、現場が賑やかになり活気付いてきましたが、相変わらずアイナメは釣れません。

昼前に湾ドの反対側で竿を出していた都留さんの竿が大きくしなり、かなりの大物を掛けたようでした。
検量で49㎝のチヌでした。さすがウキ釣り師、都留さんです。

検量、そしてミーティングも終わり、解散となりましたが、私はエサが少し余っていたので、もう少し釣りをする事にし、現場に残っていました。
しかし、30分もすると潮が早くなり、ここで釣りをやめることにしました。

夕方6時頃、家に帰り着き、荷物を降ろしていると、なんと肝心な魚がありません。ガーン!!
何とクーラーを現場に忘れてきたのです。
慌てて会長や吉本さんに電話を入れて有料駐車場の北浦さんの電話番号を調べ、北浦さんと連絡が取れ、クーラーボックスを次の釣行まで預かってもらう事になりました。
当然クーラーの中の、大きなアラカブは北浦さんに美味しく食べていただきました。

それまでの事を女房に話すと「バカ丸出しとは、アンタの事ね!」と言われ、俺もそう思うと話し、トホホッ。そしたら女房がニヤリと笑い、そのおかげで面白い記事が書けそうやね!と言われ、この記事を書くことに……。

こんな私ですが、今年もみなさんよろしく。
吉本さん、星野さん、今年は数よりも一匹の大物にこだわって競いましょう。私も負けへんで!

2011.1.28.                
 機関誌 「海洋だより」№264号で紹介


海洋磯釣倶楽部2011年1月例会 長崎県西海市伊野浦でカサゴ30㎝熊野照輝さん。
チヌ49.5㎝は都留健二さん。大道文覚くんも足元でチヌを釣りました。


 


ゆかいな釣り仲間たち シリーズ              №2

   私の釣り 日記  パート1         吉本耕二

平成8年7月始め、梅雨の合間の晴れの日に、皿倉山に登るケーブルカー駐車場近くにコイの釣り堀がありました。たしか1時間200円か300円で遊べ、そこそこ釣れ、楽しい時間を過ごした事を、会社の上司に話したところ 「せっかくやったら、美味しく食べれる魚を釣りに行こう!! 」と誘われ、平成8年7月中ごろ、福津市勝浦浜へキス釣りに連れて行ってもらった。

朝5時に到着。
もちろん、竿、リールも借物で、市販の仕掛けに砂ゴカイを付けて投げる。
「剣道の面を打つ感じで」のアドバイスが良かったのか、いい感じで遠くに飛んで行く。
3本針なので、ピンギスが3匹ずつ釣れる。
無我夢中で投げ、初めてのキス釣りで100匹以上の釣果だった。

我が家の両親共に、島根県浜田市の小さな漁港出身の為、魚の新鮮さが分かり、大きいのは天ぷら、小さいのは頭ごとカラ揚げで美味しく頂きました。

次の週は一人で行って、やっぱりまた同じように100匹近く釣れた。
休日に雨が降らなければ毎週行った。
9月になったら、今まで釣れたキスがぜんぜん釣れなくなった。
いくら遠投しても釣れない。
会社で上司に話すと、時期があるということで、今度は夜釣りに誘われた。

平成8年9月末、「関門でコイチ、チヌを狙おう」と休日前夜、今は禁止区の新浜12号に行った。
その日は、アナゴしか釣れなかったが、もちろんお持ち帰りで、白焼きで美味しく頂いた。

次の週の休日前夜、また同じ新浜12号に行った。40㎝前後のコイチ3匹の釣果。早くチヌが釣りたい。
チヌが釣れたのは、平成9年3月末、40㎝。

平成8年10月、今までの話を大阪の旧友に話すと、彼も投げ釣りにハマッていて、南紀(和歌山)などに行って、マダイ、コロダイなど大物を釣っている事を聞かされる。
道具もシマノのエアロキャスト405-CX、パワーエアロを勧めてくれて、2セット購入する。
手入れをしているので、今でも現役です。

平成8年11月~平成9年3月まで、田野浦バナナセンター前でカレイ釣りにハマり、25㎝~30㎝、悪くて7~8匹。いい時は15匹くらいお持ち帰りで、刺身に、煮付けに、食卓を賑わしてくれた。
魚釣りを始めて毎月「月刊 釣ファン」、毎週「週刊 つりニュース」を購読して、色々情報を仕入れていたので、上瀧会長や釣りのファン子ちゃんの事は憧れでした。

平成9年、春に当時働いていたレディス・ブティックのお客様で、小山奈美さんに関門イシモチ釣り大会に誘われる。小山奈美さんの友人、西川賢治さんも海洋磯釣倶楽部のOBで、カレイのギネスの事も聞きました。

平成9年5月、仕事が終わって夜22:00ごろ西海岸4号で、受付け時に、憧れの上瀧会長、釣りのファン子ちゃんにお会いできて感動でした。

仕事の関係で、休日が平日だった為、海洋磯釣倶楽部の皆さんと活動できない事が、とても残念でした。
それでも「海洋だより」を楽しみに、皆様の活躍は、いつも気になっていました。
年に一、二度は、上瀧会長宅へ遊びに行き、お付き合いを続けさせて頂きました。

平成13年? 15年?、九州磯釣連盟に誘われ入会させて頂き、平成20年、転職を機にクラブの皆さんと一緒に、例会に参加させて頂き、21年度より海洋磯釣倶楽部 正会員となりました。
どうぞよろしくお願いします。  つづく。


2011.4.18.                機関誌 「海洋だより」№.267号で紹介






1990から続いている関門海峡夜釣り選手権&イシモチ選手権に吉本耕二さん参加してますよ。彼はいつも入賞しています。



2010.7.10.海洋の 坂ノ市大会。渡船 清吉丸で東波止でクロ、チヌ、アジ。吉本耕二さんはヘダイ50㎝ギネスでした。2010.5.15.海洋の関門海峡例会でコイチ59㎝吉本耕二さん



ゆかいな釣り仲間たち シリーズ                         №3

渡船と関わる私の生い立ち              ペンネーム 大和三郎丸

海は広いな大きいなぁー 行ってみたいな よその国。
幼いとき洞海湾を渡る定期船に乗り、若松の「おいべっさん」に行った。
と、おじいちゃんから聞きましたけど、昭和28~29年のころでしたから、まだ3~4才、覚えていません。

若戸大橋が開通したのが昭和37年。
この時代に生まれてなかった貴方、分かりますか?
北九州市や下関市、関門海峡、そして離島の交通手段の便は全て船でした。
私が若松の吉田印刷所に勤め始めたのが昭和42年からで、当時はバスと若戸渡船で毎日通勤していました。
その渡船、最初のころはちょっと怖かったのですが、我慢して通っていると感じなくなります。
そのような「船との生い立ち」をエピソードで紹介します。





通勤でお世話になった若戸大橋と市営 若戸渡船。
若松恵比須神社と若松文化の若松図書館は、すぐそばにあります。


エピソード 1


釣りバカ三兄弟が始まったのが、まだ中学生から、高校生のとき同じ小倉に住む益田勝義さんが、けっこうな釣りキチで毎週、馬島とか藍の島で大きなキスを釣ってくる話し。
彼は私の従兄にあたり、いつの頃からか一緒に釣りに行くようになった。
しかし小倉砂津、紫川河口から市営の小倉丸に乗り40分かかる馬島、さらに20分かかる藍の島には春から秋口にかけて良く通った、といっても、私達は波止や磯場からの釣りで少々の釣好。
勝ちゃんはボート釣り等でいつも大漁。

釣りバカ三兄弟の原点は、ここから始まったと言える。
その定期船、島民の足となるので、けっこうシケても出船する。
おかげで、しょっちゅう私は船酔いをした。
けれど弟や仲間達がワイワイ賑やかで、それに、はぐらかされて行った。
ちなみに、なぜかしらバスでも電車でも酔ってしまう心の細さに、自分自身呆れていた時代でもあります。





昭和40年代によく通った山口県長門市川尻岬に、釣りのファン子ちゃんと釣行しました。2010.11.

エピソード 2


高校を卒業して若松の吉田印刷所に通うようになった。
小倉三萩野からバスと市営若戸渡船を乗り継いで通勤するのだが、40分乗るバスはなんとかOKだったが、洞海湾を渡る市営 渡船は苦手だった。

大きな貨物船がすぐ前を通ると、大きな波が来て上下に揺れるのが怖かった。
しかし慣れてくると、なんでもなくなり、三年ほど通勤。
その後、マイカーを購入しての通勤は凄く快適だった。

職場の先輩達が「上瀧が釣りをするんやったら釣らしてヤロウ」ということで、あっちこっち引っ張りダコ。
その中でも船釣りとか、貸しボート釣り、先輩のゴムボート釣りを幾度となく体験させてもらったが、みんなすごーくイヤだった!! 船酔いするから。

なぜ船酔いするのか分からないが、波とか風、潮流による船の不安定で、前後、左右、上下、とにかく複雑に揺れることを気にしすぎて酔う。
早い話し、恐怖とか、怖いとか、普通でない状態に身をゆだねることが大キライであるのかも知れない。
それでも、その内、慣れるさ!! と、先輩達が口をそろえて言うので、我慢と、努力、辛抱、忍耐?
 そこまでして釣りをしたいのか?、と、なってくる。




北九州市若松洞海湾を渡す市営若戸渡船と若松港、若戸大橋。
その街で釣りを学び、たくさんの人々との交流をもった。



エピソード 3


会社に入社して3~4年目ごろから、いよいよ本格的な磯釣り入門となるが、このときの私は近場のキスとかアイナメ、小グロ、メバル釣りしかできない、全くの初心者で、ただ単に仲間達に無理やり連れて行かれた、仕事の延長にあるお付き合いの釣りでしかなかった。

三郎丸小学校で野球したり、レコードを聴いたり、本を読んだり、もしかして女の子と遊びたい年頃でもあったが、そんな夢を全部壊してくれた会社上司の釣りキチ師匠が、中古の磯靴、救命具、竿、リール、釣り具一式を次々にくれた。それもみんな私の車めあて。

当時、150人ほどが勤める会社に、自己のマイカーを持つ社員は、社長と2~3人ぐらいだった。
その中で釣りができるのは私だけだった。
そして宮崎県門川町いおん川港から小ちゃな渡船で、あの、大ビロー島へ石鯛釣りに行くことから、私の磯釣り入門編が始まった。

詳しくは、機関誌 「海洋だより№.268」に記載されている週刊つりニュースの稿 №18を見て下さい。




 

1978.5.益田勝義さんと上瀧哲郎さん私で小倉砂津から対馬へ大キス33.5.㎝は紫瀬戸で哲ちゃん。
勝ちゃんは石鯛と、クロダイ。私キス29.8㎝は沖ノ島。
この時は吉永空港レンタカーを利用し、2泊3日で27㎝以上の大物キスが50匹以上で大漁。





エピソード 4

海洋磯釣倶楽部を結成して、わずか一年あまり、私の磯釣り師匠が亡くなりましたけど、そのタネ火は相変わらず燃え続けています。

愛媛県佐田岬正野港、光進丸で岬半島の磯釣りから、藤崎好夫さんのホームグランド筑前大島の磯釣り、こちらは市営の定期船で40分ほどかかりますけど、玄界灘の荒波を削ってゆく大島丸に随分恐怖をいだいたものです。
特に冬の海は凄くシケるのでイヤなんです。しかし、クラブの大会とか月例会ですから、一人だけ怖いから、船酔いするからイヤとは言われません。

大島丸が船より高い大波をかき分けて突き進み、波しぶきがバシャーと顔面にブチ当たることだってありましたし、波の合間に船がハマッてしまうと、船より上の方に波があるから怖いですよね。
冬の海は凄く怖い思いをしますけど魚が釣れることを信じて、とにかく我慢して行くのですね。
多いときで年に20度くらい通いました。

それと、山口県特牛港から角島へ渡る定期船も怖い想いをしました。
今は角島大橋がかかり観光的にも凄くリッチな島に変わりました。






1981.5.愛媛県佐田岬の磯釣り&正野港の釣りはキス、カレイ、チヌ、クロ、ヤズ益田、保利、東、上瀧哲郎、私、内田、藤崎さんと年に3~5回通い、毎度、ウマズラハギ25~35㎝をタモですくい、クーラー満タンだった。

エピソード 5


私が20代から30代に入り、いよいよ磯釣り界の仲間入りをすることになります。
釣りクラブから更に上のレベルを目指して活動することは、より以上に渡船を多く利用した沖磯に通うことになります。

大分県の鶴見、米水津、蒲江、深島、島野浦島、高知県の宿毛、愛媛県の八幡浜、そして長崎県五島と、ドンドンとエスカレートしてゆく過程に大型高速渡船が普及し始めている時代です。

スピードがあるけれど操船をクリアする船長さんの技術的なものは、まだまだで、各地域で事故が多発していた時でもあります。
そして私は、随分と船酔いで苦しみました。

恐怖でガタガタ震えたこともしょっちゅうありましたけど、このとき私は小心者と思いましたね。
しかし、こんなことはまだ良い方で、もっと凄い体験を次々にしてゆくのです。

30代は㈱ゴーセンとか㈱オリムピックのインストラクターという肩書をもらいますけど、この釣行会はハイレベルな釣りスタイルに実釣大漁をアピールすることが原則ですから、釣れる釣り場に、とにかく行くことです。
五島方面から対馬、四国、大分南、平戸宮ノ浦が多くありましたけど、一番イヤだったのが上五島の津和崎の磯です。
佐世保からわずか80分の超高速船、釣好丸は定員30名乗れる最新鋭の渡船で、そのまま津和崎の名礁に上礁できます。
限られた漁圏内ですから、他の渡船が入ってきません。
名礁タン瀬とか、そのハナレ瀬に5~6回上がって良型のクロ、マダイを釣らしてもらいました。
しかし、そこまでの乗船が、もう怖くて心臓が止まるぐらいのハートで釣行していたものです。
まだ若かったので顔には出さないものの、内心穏やかではなかったのです。






1991.5.哲ちゃんと、TOTO機器の泉さんと私で対馬のキス釣りを釣研丸でしました。
島山島で29.9㎝は私。昼ゲ浦で30.4.㎝を哲ちゃん。民宿阿比留荘利用。






1991.4.と10.航空機で。民宿海風荘&釣研丸、中村船長と、ゴーセンフイルドテスター会で対馬のチヌ釣り。九州磯釣連盟福岡支部の有久支部長他、スタッフ12名は、有名人ばかり、その中で私、10回以上テスター会で釣行。

エピソード 6


昭和50年から60年代にかけては、まだ会社も景気が良い方で、私はトップクラスの給与がもらえていました。それをそのまま釣行費用にあてていた時代でもあります。

その中で、会社の旅行がバンコク旅行、そして香港とか沖縄に行くことがあり、初めて飛行機に乗ります。あの重い機体がスーツと空気の中で走っていることを想像するのですけど、その上り降りはエレベーターみたいとは、釣りのファン子ちゃん。

でも雲の上の中で機体が急に上、下、左右にバタバタと揺れる瞬間は、すごーィ恐怖です。
もう心臓が止まるかも知れない。そんな飛行機も、やっぱしキライなんですね。

長崎県対馬や下五島福江島に飛行機で行く、ゴーセン・フィルドデスター達、すごく恵まれている時代なんですけど、考え方によったら、フェリーで行くより飛行機の方が早く行けますから、こっちの方がイイに決まっています。
ですから福岡空港から対馬までの25分のフライトはキライではなかったのです。






1975.7. 結婚してすぐの4台目のホンダZ360。3台目は、ホンダNⅢ360と洋子ちゃん。
ちなみに1台目はホンダN360バン、2台目はホンダライフ。






1
976.浦本英二さんはダイハツ。3台目はトヨタ.セリカ。
1977.7.家族で壱岐へ国民宿舎壱岐島荘、大魚でした。


エピソード 7


小さな渡船が怖い、船酔いする? なら、大型カーフェリーならイイでしょう?
毎年通っている長崎県対馬へは、博多築港から深夜便で5時間かかります。
壱岐なら2時間ほどですけど、いずれもマイカーを持ち込んでの釣行です。

その対馬へは昭和50年から60年代にかけては、北九州市小倉浅野から比田勝港で7時間かけて行きます。1千トンクラスの大型船だから揺れないだろう?と思いますけど、玄界灘の波は、そんなハンパなものではありません。上下、左右、大きく揺れて、ゲーを吐くこともありましたけど、そのときは横になって寝ることで、なんとかカバーできたつもりでいます。

けど、もぅ行きたくない!! しかし、キス大漁とか釣れる、ロマンがありますから、再び無理して行くのです。
それが今だに続いていることを不思議に思います。ちなみ今は北九州市便はありません。






2010.5.対馬6日間シロキス30.5㎝、チヌ53㎝が私、釣りのファン子、チヌ52,5㎝キス31.5㎝。国民宿舎上対馬荘。





上対馬町の大浦でイトヨリ45㎝キス28㎝も大魚。国道からのサーフ。ホンダステップバンで。

エピソード 8


お魚さんを求めて私達はたくさんフェリーを利用していました。
愛媛県佐田岬へ行く佐賀ノ関からの国道九四フェリーは約80分です。
3千トンクラスですけど、伊予灘を渡るとき、けっこう揺れます。
佐伯市から行く高知県宿毛フェリー、こちらも同じようなものですけど、なんとかなります。

佐世保から上五島宇久島フェリーも数千トンの大型なんですけど、やっぱしキライ。
一番安心して乗れたのが、新門司港から大阪、神戸の阪九フェリー、1万トンフェリーです。
こちらは瀬戸内海の小島をぬって行きますから、すごく快適です。
で、5~6度利用しました。
いずれのカーフェリーは全てマイカーを乗せて、現地で釣行できることを考えています。
ただ、ゴーセン・フィルドテスターとか、月刊 釣ファンのメンバーでの釣行は、カーフェリーを降りてすぐ渡船ですから、すごーくハードで、もう釣りの気力がヘタヘタになっていることもありましたけど、その分、若さでカバーしながら頑張ったものです。

ちなみに㈱ゴーセンが始めた釣り番組「大チャンの釣りに行こう」は今だに続いていますけど、この番組に5~6度、出演しています。

   

 



エピソード 9

平成5年の夏休み、息子が通っている小倉南少年サッカークラブが福岡県360チームの頂点に立ち、代表して東京読売ランドで全国決勝大会に出場することになりました。
真一(6年生)は左サイドバッグでフル出場。
メンバーの6年生11人、5年生7人は2勝2敗で、決勝トーナメントには行けませんでしたけど、少年サッカーの夢の舞台に出場したことを父兄、後援会が子供達に東京ディズニーランドをプレゼントしました。

私は広報部ということで、8日間、ファミリーで付限のお世話係しました。
しかし、ディズニーランドのミュージアムにはまいりました。
マウンテンランドやトロッコ・コースターが揺れて、揺れて、スリル感と恐怖感が、あの船酔いをさらにゲーム感覚であおるので、もう子供達についてゆけない自分にギブアップ。
帰りの新幹線も揺れて、もうヘタヘタの夏休みでした。

そして、結婚20周年を記念してハウステンボスに行ったとき「大航海」というミュージアムに入ります。
どんなものか? で入って驚いた。劇場全体が上下、左右に揺れるとは思ってなかったのです。
釣りのファン子ちゃんが言います「せっかくフリーパス買ったのに、ミュージアムに入れない!! 」
 後は素晴らしい運河とボートに乗って終わりましたけど、
このときは、オランダ村がありましたから、こちらも大きな海賊船に乗って航海しました。






小倉南少年サッカークラブは全国大会で二度も優勝した名門チームです。
息子が東京へ連れて行ってくれました。






私の7台目の愛車ブルーバード、平成3年ごろの鷹島磯釣り大会 vs 隆盛丸、床浪切れ波止。

エピソード 10


平成4年から7年にかけて、石松イサムさんの釣りバカ兄弟に誘われて宗像沖の島に通うことになります。
次男の勝巳さんは、沖の島を恋人と呼ぶほどの常連で、大型高速渡船の恵比須丸、第2恵比須丸を所有する宮崎船長さんと大の仲良し。

それで海洋磯釣倶楽部の大会を2度、個人的にも10度ほど利用しましたけど、ゴォー.ゴォー!! と、波の上をハイジャンプで滑走するから、クーラーが跳ねて、海上に落ちることも幾度かあります。
当然、船底で寝ている私達は身体が宙に浮くのです。

ゲーム感覚で操船しているのか? と思われるぐらい、無茶苦茶なスピード狂に随分悩まされましたけど、
夢のある宗像沖の島の釣りはさらにエキサイトさせてくれますから、
いつしかそのことを忘れて、再び荒船に乗って船酔い。

こんなことが続いた平成8年のお正月前、大好きだった石松勝巳さんが、沖の島御門から転落死してしまいました。このことからピタッと沖の島釣行がなくなりました。



左、宗像沖の島を案内してくれる恵比須丸。ホームグランドから御門があります。右は大分県蒲江、清水マリンです。

エピソード 11


昭和49年3月に釣りのファン子ちゃんと結婚して、次の年ユーミンが生まれ、55年に真一が生まれます。
そして、この頃から長崎県鷹島へ通うことが多くなってきました。

鷹島へは肥前町星賀港から松尾フェリーで渡るのですけど、わずか10分ほどの船旅に車の中から出られないハプニング。
しかし、これが当たり前にあったこと、分かりますか?
カーフェリーに車輌を積み込むとき、前後の間は20㎝で、わずかに通れる? ほとんど通れません。
これは良いのですけど、左右の車と車のスペース、これも20㎝。
スライド・ドアが開いても、隣の車が目の前にあって出られません。
あるいは船のカベがあって出られないのです。
車は前後左右、すし詰め状態で押し込められますから、入れた時点ですぐに出てないと出られないのです。
常識では考えられない、車の積み込みに文句を言う人も居ませんし、これが当たり前?
料金が安いのですから当然という鷹島町、肥前町の役場の人々でした。

そんな松尾フェリーを利用して約27年間、私達は知られざる鷹島の釣り場と釣好を得ました。
今は無料の鷹島大橋が開通され、島内は凄く便利になりましたけど、
古き良き時代は世風によってサビレて行く、そんな気がします。






佐賀県肥前町晴気港の隆盛丸さんとは、もう20数年のお付き合い。
鷹島を案内してくれる2代目、隆船長さんは釣りマナーと親切を売る「マレ」な船長さんです。


エピソード 12 まとめ


40数年間、様々な乗り物に乗って楽しんだ趣味のお魚釣り、マイカーで交通事故とか故障も多くありましたけど、ほとんど、釣り仲間の協力でしのげたことが、数多くあります。

渡船も沖波止から荒磯釣りまで、あらゆる船を利用し、多くの釣り場を案内してもらえました。
私が体験した渡船とのエピソードをホンの少し紹介してますけど、現実には、この数10倍のエピソードがあります。
無茶苦茶やっていた若いころの釣りから、老いの釣りにシフトされてますけど、それをカバーしてくれる渡船のサイズとパワーは、安全を最も意識した船長さんの心意気を知ります。

釣人の命を守ってくれる心強い船長さんを見つけること。
そして信頼も大切です。その上で私達が自己の身を守るスタイルも日々、考え、行動することも大切です。
みなさん渡船を利用した安全な釣りを楽しみましょう。

 



大分県蒲江猪串港の三幸丸渡船で海洋の大会を3度開催しました。この写真は平成9年の秋季大会です。


  「ゆかいな仲間たち」シリーズ                       №4


  
私の釣り人生                         星野正紀

釣り人生などと題せば、大層なことを書かなければならないのかも知れませんが、ただ単なるこれまでの私の釣りの回想です。

釣り好きの父、祖父に恵まれ幼少の頃より釣りをしていた私は、初めて竿を持った時の事を覚えていません。その位、幼い時から私の釣り人生が始まっていたのです。
海、川、池、渓流など様々な自然環境の中での釣りは、私にとって良い思い出もあり苦しい思い出もあります。

冬の寒い日、時折雪が散らつく中、父と父の会社の人と私の3人で、福岡市を流れる室見川の上流に位置する、曲渕ダムへワカサギ釣りに行きました。
昭和50年代は九州のダム湖では、そこそこにワカサギが釣れていた時分です。
たき火をしながら、熱いカップラーメンをすすり、鈴鳴りで釣れる美しい魚をその場でカラ揚げにして食べた事を鮮明に覚えています。
数年前、この美しい魚がもう一度釣りたいと思い、油木ダムへ釣行したのですが、冬だというのに、近くにいたルアーマンが40㎝クラスのブラックバスをコンスタントにヒットさせているではありませんか。
九州各地のダム湖では同じ様な状況の場所が多く、ワカサギに会えなくなった事を残念に思います。

船釣り初体験は小学校2年生の時。
父の叔父さんの所有していた小型船で、糸島郡の姫島近辺で五目釣りをしました。
マダイ、アラカブ、カワハギ、マハタと良く釣れ、極めつけは大きなマダコ。
体の小さかった私にはとても上げきれずに、代わって父が船上にブリ上げた時には大変驚きました。

初めての船釣りでしたが、船酔いなど全くせず、陸に上がった時には、まだ船の上で揺られているような気分だった思い出があります。


小学校中学年から高学年にかけては、学校から帰ると宿題などはそっちのけで、毎日の様に近くの池や川で釣りをしていました。
吸い込み仕掛けで大きなコイを釣ったり、紅サシを付けエに、クチボソやモロコを数釣ったものです。
これらの小さな魚達は、今でも生息しているのか心配になるところです。

中学校に入ってからは行動範囲が広くなり、自宅から自転車で1時間程で行ける、福岡市中央区の荒津岸壁や赤灯台へよく通いました。
青ケブをエサにちょい投げでハゼや手の平クラス主体でしたが時折30㎝近いカレイが結構釣れていました。
ノベ竿にウキ仕掛けでウミタナゴを大漁しましたが、近くを通った船の大波が防波堤を洗い流し、クーラー他タックルボックス全てを失った苦い経験があります。

中学時代の忘れられないもう一つの思い出は、ヤマメを釣った事です。
宮崎県西米良村の一ッ瀬川で一投目にして18㎝を釣り、初挑戦にしては上出来の23㎝も釣り上げました。
ナイロンラインの0.6号の仕掛けにヒヤヒヤものでした。
私はこの2尾しか釣れませんでしたが、あの美しい魚体には感動しました。
それから数回ヤマメ釣りにチャレンジしましたが、自己記録を更新できず、今に至っています。

高校1年生になると、生活スタイルや友達環境が変わり全く釣りに行かなくなりました。
そして三学期に中退し、一時私の釣り人生は途絶えてしまうのです。
21才位までは、酒、パチンコ、麻雀に忙しく、釣りという趣味を持っているのも忘れていました。
そんな時、会社の先輩に「船でアジ釣りに行こう」と誘われました。

当時、飯塚で一人暮らしをしていた私は、釣り道具等一切無く、近くの釣具店に一式買に行きました。
そして久々の釣りで40㎝の大アジを入れ食いさせ、再び釣りの爽快感を味わったのです。
それからもその先輩とは、貸ボートでキス釣りに行ったり、ハゼ釣りに行ったりと良くお世話して頂きました。
独身の私の事を思って、釣行の際には必ず私の分のオニギリも持ってきてくれ、夜には釣果で一杯やらしてもらった思い出も忘れられません。

24才に結婚。それからも、ちょくちょく妻と子供を連れて、小物狙いで宗像方面に出掛けていました。
そんなある日、いつもの様に釣川河口でハゼ釣りをしていた私達の隣に、一人の釣り人が現れました。
その人が仕掛けを組み竿をひと振りすると、私の投げている距離の何倍も飛んでいるのです。
近くへ行き、「オモリは何号ですか?」と尋ねると20号という返事でした。

私も同号数のオモリを使用していましたが全然飛ばないので、何かが違うと思い、その人をよく観察しましたが、分かったのは、自分の使用している竿とは明らかに違い、竿尻からリールシートまでが長いという事だけでした。
それから数日後、書店へ行き「週刊つりサンデー」発行の本を購入しました。
その中の本で投げ専用の竿とリールがある事を知り、初めて力糸という存在を知ったのです。

又、糸が細ければ抵抗が少ないという事も…(単純に考えてもそうなのですが)これを機に竿、リール共、投げ専用のものをそろえ、投げ釣りと言える釣りはここから始まったのです。
そして釣行を重ねるに連れて、竿もリールも有名メーカーの物が欲しくなり、小遣いの大半をつぎ込んだのですが、釣果には一切関係のない事でした。

それからも相変わらず宗像方面で、キス、カレイの小物釣りばかりしていた私は、「投げ釣りマニア」という本に出会いました。場所によっては、チヌ、マダイ、大型カレイ等、色々な魚が投げで釣れると知り、その様な釣りがしたいと思う日が続きました。

そんな頃、週刊つりニュースの九州投竿さんや京都テツ、釣りのファン子さんのレポートを見て、サーフで活躍されている海洋磯釣倶楽部を知りました

私も一緒に釣りをしたいと思いましたが、なかなか踏ん切りがつかずに同倶楽部の存在を知ってから約2年後、思いきって上瀧会長にパンフレット資料の請求をし、電話で話し入会することになりました。
入会後は、色々な情報が入るようになり、月例会などでも今まで行ったことのない釣り場へ足を運ぶ様になりました。

釣りスタイルは主にサーフですが、お誘いがあれば色々な釣りに挑戦したいと思っていますので、皆様声を掛けて下さい。そしてこれからもよろしくお願いします。
私の釣り人生はこれから、いつまでも続く事でしょう。




会長 
この稿は平成20年 月 日に「海洋だより」に記載したものですけど、もう一度紹介します。
星野正紀さん家族の釣り好きが、ホットに伝わってくる稿でした。
次はパートⅡ、よろしくお願いします。
 因みに、海洋の広報部長としてお世話係しながら、奥さまと子供さんのファミリーフィッシングを楽しんでいます。
昔の私達にもこんな時代がありましたけど、そのときは海洋磯釣倶楽部に10家族の同じ年代で遊べていましたから、すごく楽しかったのです。
今はそのようなファミリーは星野さんぐらいしか居ませんから、ちょっと可哀想。
それでも海洋磯釣倶楽部の伝統と子育てを楽しみながらマイペースでお付き合い下さい。よろしくお願いします。


             
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